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Translated Article of Fr. Shay Cullen


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虐待を受けた子どもたちに正義をもたらす素晴らしい裁判官たち
Fr. Shay Cullen
2021年2月5日

ほとんどの人が子どもたちに対する恐ろしい犯罪に気づいていない。このような犯罪は昼も夜も子どもたちの周囲で起きている。子どもたちに対する犯罪は日常的に、密かに、人目を避けるように発生し、ほとんどの犯罪がそうであるように、当然、隠蔽される。誰かが目にし、調査を行わない限り、何が起きているのか、人々が知ることはない。子どもたちに対する性的虐待は、人目につかない、人気のない場所で行われる。虐待者は、虐待は悪いことであり、見つかれば罰せられるだろう。虐待者たちはそのことを意識や心の中で理解している。フィリピンでは、児童性的虐待に対する刑罰は厳しい。当然そうであるべきだ。

児童虐待者は、1回の虐待行為や1人の被害者で満足することは決してない。虐待者は数多く存在し、小児性愛者の多くは連続して虐待を行う。虐待者は多くの子どもたちを虐待する。だからこそ児童性的虐待に対する長期刑は、その犠牲者や被害者にとって正義となる。だが、被害を受けた子どもが耐えている、計り知れないほど大きく、一生涯続く傷や苦痛、苦悩に対して、それはほんの小さな償いである。自分の身に同じようなことが起きない限り、その子にとってその苦痛や苦悩がどのようなものであるのか、知りようがない。

オロンガポ市地域裁判所第12支局家庭裁判所のGemma Theresa B. Hilario-Logronio裁判官は称賛すべき真の裁判官であり、証拠に基づいて公正な判断をする。2021年1月、彼女は児童虐待者に終身刑を言い渡した。3回にわたっておじに性的暴行を受けた時、被害者の女の子はまだ11歳だった。このおじはもう子どもたちに性的暴行を加えることはない。2020年5月、この裁判官は画期的な判決の中でJohnny Torres Medinaを有罪と判断した。この男は、11歳の2人の子どもに対する性的虐待の罪で、合理的疑いの余地なく有罪とされ、終身刑を言い渡された。これらの判決は、被害を受けた子どもに待望の正義をもたらし、他の被害者や子どもの擁護者や支持者たちを励ました。極めて衝撃的な事件について明確かつ率直に証言した子どもは3歳だった。この女の子は2019年7月22日、実の父親に性的暴行を受けた。虐待者であるHarly Villaceran Bartolabaはこの女の子の姉に目撃された。この3歳の女の子は、父親がその指で彼女に何をしたのか、そしてその行為により彼女は陰部から出血したことをはっきりと供述した。裁判官はその証言と強力な証拠により、父親を有罪とし、懲役14年を言い渡した。

プレダでは、被害を受けた子どもたちの治療過程で、子どもたちの苦しみを目にし、耳にする。だからこそ子どもたちの苦しみを知ることができる。感情放出療法(Emotional Release Therapy)によって、子どもたちは最終的に自分の中に封じ込めていた全てを吐き出すことができる。これは完全に自由な状態で行う活動であり、苦痛や怒り、痛み、憎しみ、苦悩といった深い感情を思い切り吐き出させるためのセラピーである。子どもたちは叫び声をあげ、怒鳴り、まるで自分たちの人生から性的暴行者を叩き出すかのようにマットを叩き、殴る。その様子は我々の身をすくませ、震え上がらせる。そしてその場から逃げ去りたいとさえ思わせる。

その後、子どもたちは自由を感じ、大きな重りが取り除かれるのを感じる。子どもたちは自信を取り戻し、力をつけ、恐れや恥ずかしさを感じることなくはっきりと証言できるようになる。性的虐待の被害者たちの多くは、安らぎを手に入れこと、過去のトラウマから解放されること、そして一生涯抱えることになるショックや恐怖、不安、深く押し込めた苦痛や怒りを解き放つことを諦めている。被害者の多くは、そうしたものを心の奥底に何とか封じ込めるが、引き金となる出来事があれば、その傷や傷跡は、記憶とともにいつでも開かれる状態にある。

2020年6月11日、パンパンガ州アンヘルス市地域裁判所第59支局のMaria Angelica T. Paras-Quiambao裁判官によって、被害を受けた2人の子どもが正義を手にした。虐待を受けた時、2人はそれぞれ9歳と11歳だった。81頁に及ぶ判決文の中で、裁判官は、Christina Limpin Mendoza(22)を5つの訴因により合理的疑いの余地なく有罪とした。この女は、性的搾取目的の外国籍の小児性愛者を相手に人身取引を行なった。人身取引業者のこの女は複数の終身刑を言い渡された。これは、児童虐待者や人身取引業者は法の下、完全なる責任を負うことになるという強烈なメッセージである。

Maria Cristina J. Mendoza-Pizzaro裁判官もまた、性的暴行や虐待の被害を受けた多くの子どもたちに正義をもたらしてきた。2020年6月10日、控訴裁判所第6課は、児童性的虐待者の有罪判決を支持する判決を下した。7歳の子どもに対する性的暴行が立証され、裁判官は2018年11月15日、この虐待者を有罪としていた。原判決と有罪判決を下したのはMaria Cristina J. Mendoza-Pizzaro裁判官であり、彼女は、児童性的暴行者や人身取引業者に対して多くの正当な有罪判決を下してきた。現実的な法の適用において、長く素晴らしい経歴の持ち主である。この虐待者たちは2度と子どもたちを虐待したり、性的に暴行することはできない。

児童性的虐待者の多くは、その子どもの親族である。被害者は家族という存在に縛られ、被害を受けやすい。昨年以降、こうした状況が子どもの幸せを脅かし、壊している。子どもたちは、夜中に忍び寄る性的暴行者から逃げ出すことができないからだ。それは実の父親であり、母親の同棲相手であり、兄弟や従兄弟、地域の小児性愛者たちだ。2020年に我々が救出・保護支援を行なった107人の子どもたちを虐待したのはすべて、こうした人物だ。この子どもたちは、性的虐待や人身取引の被害を受けた子どもたちのためのプレダ・ホームで治療を受けている。

被害者となる子どもは、大きな成人男性である虐待者に対して弱く、力も劣る。その男が親族であれば、その子に対して支配的立場にあるため、圧力をかけたり、威嚇する。子どもは、性的ないたずらをされると、心が麻痺し、精神機能が停止する。子どもたちはセラピストにそう話す。この恐怖は脅しによって引き起こされる。「誰かに話したら、お前やお前の兄弟姉妹、母親を殺す。これは秘密だ。自分の中だけにしまっておけ。」そしてその子は一生涯言われた通りにする。自分を性的に暴行したことに対して実の父親や兄弟を訴える。その子にとってこれがどれほど困難で、恥ずかしいことか。事実を公にすれば、自分の家族に不名誉や処罰をもたらすことになる。家族は一生涯その子を責めるだろうし、子どもの話など信じることもない。信じてももらえず、助けてももらえない。これが、被害を受けた子どもにとってさらなる苦悩となる。

被害を受けた子どもが勇気を持って母親に話した場合、その子の置かれている状況が悪化することもある。安心や救いにつながるとは限らない。多くの母親が、その生活費を子どもの父親や同棲相手に完全に依存している。もし近所や関係機関に事実を知られるようなことになれば、その影響は計り知れない。だから多くの母親は、自分の娘の話を信じないことを選択する。そうした母親たちの心の中にあるのは恥ずかしいという思いや虐待者からの復讐を恐れる気持ち、夫や同棲相手からの経済的・精神的支えを失うことへの不安だ。事件の中には、父親が娘に性的暴行を加えている間、母親が娘を押さえつけていたという卑劣極まりない犯罪が行われていたケースもある。

唯一の真の解決策は、事実を明るみにし、虐待者に責任を負わせることだ。ネット上での児童性的虐待の被害者についても然り。インターネット・サービス・プロバイダーを管理しているのは電気通信会社であり、彼らは、共和国法第9775号第6条に従わない理由や、ネット上に児童性的虐待や児童ポルノが蔓延している状況を認めている理由を説明しなければならない。いつ、政府や国家電気通信委員会そして国民が立ち上がり、子どもたちのための正義を求めるのか。それが大きな問題だ。

原文:https://preda.org/2021/the-good-judges-that-give-justice-to-abused-children


ホロコースト、そして人種差別からの解放
Fr. Shay Cullen
2021年1月29日

毎年1月27日になると思い出されるのは、犯罪集団であるドイツのナチス政権による大規模な虐殺と大量殺人という、最も恐ろしい犯罪である。スペインの哲学者George Santayanaは「過去を忘れた者たちは、それを繰り返す運命にある。」と述べた。このような犯罪はこれまでも繰り返されてきたが、決して繰り返されることを許してはいけない。用意周到に計画された大虐殺において、600万のユダヤ人その他の少数民族や政治犯が、個人あるいは集団による銃撃で一掃された。数十万人が過労死や餓死し、さらに数百万人が毒ガスで命を奪われた。そしてナチスがヨーロッパ全土に建設した、悪名高い強制収容所や絶滅収容所の焼却炉で焼かれた。こうしたことが起きていたのは1939年から1945年までの間であり、ナチスが残忍残酷なやり方でヨーロッパ征服を進めていた時期である。

筆者は以前、ワイマール近郊にあるBuchenwald絶滅収容所を訪れた。そこは隔絶と残虐行為、大量殺害が行われた恐ろしい場所である。片田舎にあるこの場所はひどく寒く、人を寄せ付けない。電気柵に囲まれた大規模な収容所が見えた。数十万に及ぶ政治犯や戦争捕虜、ユダヤ人、ロマ民族、混血人種そしてアフリカ系ドイツ人たちに、逃げ道はなかった。ナチス政権に反対する者は誰であれ、死の収容所に送られた。そしてそこで、ナチス親衛隊の暗殺部隊によって処刑された。

収容所の周辺を歩いてみた。収容者が寝ていた木造の小屋は取り壊されていた。収容所の隅にある高い煙突を備えたコンクリートの建物の中には“殺人部屋(murder room)”があった。収容者は1人ずつ、身長を測定すると言われ壁を背に立たされ、その壁の穴を通して射殺された。地下には、フックがコンクリートの天井に固定された部屋がある。手足を縛られ、首にワイヤーを巻かれた無実の収容者たちは吊り下げられ、ゆっくりと絞め殺された。その後、遺体は巨大な金属の容器に入れられ、絶滅部屋(extermination room)に引き上げられる。そこで遺体は6機の大型焼却炉によって、まるでゴミのように焼却処分された。部屋の外には、高く積み上げられた痩せ衰えた死体の写真が大きく引き伸ばされて展示されていた。これは極限の空腹や銃殺隊によって殺された人々の遺体であり、焼却炉へ運ばれるのを待っている。不快な仕事は、収容者たちが強制的にやらされていた。

後悔の念を抱くドイツ人や新しい世代の人々によって、毎年、こうした犯罪を振り返る記念行事がドイツ全土で催されている。犠牲者に敬意を示し、彼らを追悼する多くの記念碑が建てられている。そうすることで、ドイツをはじめ世界中の人々が死を悼み、その死を知り、認識できる。そして、このような犯罪やネオナチの憎しみに満ちたイデオロギーやあらゆる形態の人種差別主義は、平和へ向けた取り組みによって抵抗、反対、反撃されるべきであるという決意を強めることができる。その後も大虐殺は起きている。ルワンダやボスニア、ダルフール、スーダン、イラク、カンボジア、ミャンマー、まだまだあげればきりが無い。ユダヤ人は、ナチスによる憎しみと人種差別の一番のターゲットだった。ナチスはすべてのユダヤ人を逮捕し、死の収容所へ送った。ユダヤ人たちはそこで組織的に殴り殺され、ガス室に送られ殺された。その総数600万人、そのうち100万人が子どもであった。

我々はみな、このような独断的な殺人や残虐行為に反対の姿勢を示すべきである。黙って傍観すべきではなく、抗議もせずこうした行為を見て見ぬふりをすべきではない。そのような沈黙は、何も行動を起こさないことによる承認や同意を意味し、犯罪の共犯であることを意味する。このような独断的な殺人に反対の姿勢を示すためにも、我々には、人権や尊厳について説いている福音書の価値観に沿って形成された良心が必要なのである。そして殺人や戦争犯罪、大虐殺を否定し、非難しなければならない。ここに我々は、このような殺人の一切を邪悪な行為及び不法行為として、非難する。

ナチス政権は、人種差別的であり、政治的に極右政党であった国家社会主義政党を足場に活動した。彼らは、白人至上主義者は必要であれば暴力を使ってでも征服、支配する運命にあり、自らがそうあるべきだと確信していた。オーストリアからの移民であったAdolf Hitlerは、巧妙な政治的操作によってドイツ国民の支持を得た。主要な政党はHitlerの人種差別的政策とイデオロギーを受け入れ、彼が全権力を手にするまでの地固めをした。Hitlerは首相となり、カルト集団の狂信的な信者のような彼の支持者たちは連邦議会の議事堂に火をつけた。Hitlerは共産党員を非難し、大統領命令によって全員を逮捕させ、議会から追放した。その後、ナチス政党は与党となり、強権的手法でドイツを支配し、ユダヤ人と共産党員の一掃に取り掛かった。

ヨーロッパやアメリカで白人至上主義者やネオナチ極右集団がナチスの象徴である鉤十字の旗などを掲げ行進し、アメリカ大統領がそれを支持するという事態を前に、我々はHitlerを思い出し、勇気をふりしぼって立ち上がり、言葉と行動で、こうした油断のならない人種差別的な政治行動に反対する姿勢を示していかなければならない。

我々はみな、自由と人としての尊厳、公正な真の民主主義の自由を支持しなければならない。そうでなければ、我々は間違いなくそうしたものを失うことになる。この白人至上主義的イデオロギーがアメリカを分断し、ヨーロッパの一部地域を脅かしている。ネオナチ主義が再び勢力を増しており、移民に対する憎しみと暴力が広がっている。

EU加盟国の中には右派ポピュリストが優勢である国もあり、不快で抑圧的な法律を通過させている。アメリカやヨーロッパの警察や軍隊には人種差別的なネオナチ支持者が入り込んでいると言われており、そうであっても不思議ではない。

非常に多くの移民や亡命希望者、有色人種の人々がヨーロッパやアメリカで殺され、嫌がらせを受け、虐待されていることに目を向けてほしい。こうした状況は毒のように、日に日に警察に影響を及ぼしており、これから起こり得る事態への危険な兆候である。警察の残虐行為が抗議とデモ活動を奮い立たせている。Black Lives Matter運動やベラルーシやレバノン、チュニジアその他多くの地域で起きている抗議デモ活動に目を向けてほしい。

現状への満足や無知、無気力、無関心、許容は、人種差別主義の容認、支持を意味し、人種差別主義や憎しみ、暴力といった政策に加担しているのと同じことである。ネオナチ集団がアメリカの国会議事堂を攻撃したことは驚くことではない。彼らはトランプ大統領にけしかけられ、民主的なプロセスを覆そうと試み、進歩的な集団によるあら探しと冒とくを非難した。これは、議事堂に放火したHitlerの卑劣なやり方に似ている。

民主的プロセスの中心である国会議事堂へのこのあからさまな攻撃について、共和党の上院議員らがトランプ有罪の評決をためらったことは、衝撃であり、非常に不快なことである。彼らは事実上、トランプに煽られた群衆によるこの犯罪行為を見逃したことになる。トランプの支持者たちは、トランプ教の催眠術や崇拝を振り払い、騙され、嘘をつかれていたことを認め、トランプ主義がけしかけ、広めてきたすべての憎しみと人種差別を拒まなければならない。そしてソーシャルメディアによる情報操作を拒絶し、そこから抜け出さなければならない。人種差別や憎しみから解放されるということは、平和に、そして理解を持って隣人を愛するために自由になることである。

原文:https://preda.org/2021/the-holocaust-and-freedom-from-racism


絶望している人々に希望を
2018年9月11日
アイルランド、ダブリン

今アイルランドで新作の映画『Black ’47』が上映されている。これは1847年、アイルランドがイギリスの占領下にあった時代の話だ。当時、主食であったジャガイモは菌に侵され、土の中で腐ってしまった。大規模な飢きんがアイルランドの貧しい人々を襲った。およそ100万人のアイルランド人が餓死し、100万人がアメリカに移住し、そして建国を支えた。

映画は1人のアイルランド人男性の話だ。彼はアフガニスタンでの戦闘の後、イギリス軍から脱走し、アイルランドへ戻った。そこで家族のほとんどが死んだことを知る。イギリス人の大家に追い出され、餓死し、あるいは凍てつく寒さで凍死した。さらなる立ち退きから親族を守ろうとするが、この男性は逮捕、投獄されてしまう。彼は脱獄し、正義を求め復讐に走る。復讐のターゲットは迫害者であり、人々が餓死している最中に何トンもの食物や穀物をイギリスへ輸出していた者たちだ。完全なる貧困に陥り、奪い取られた土地や家屋敷で奴隷として無給の労働を強制されたアイルランド人たちは、常に空腹の状態で暮らしていた。

この映画は過去の世界を映し出しているが、まるで、今の時代のイエメンの貧しい人々やミャンマーの民族浄化に苦しむロヒンギャの人々、エリトリアやシリア出身の難民、ミンダナオ島のルマド人を見ているようだ。彼らのいる場所では、正義や平和、思いやり、自由そして尊厳は奪われ、否定されている。正義や平和、思いやり、自由、尊厳というものは、我々が当たり前に思っている理想であり価値観であると同時に、なくては生きていけないものなのかもしれない。迫害され、空腹で、餓死寸前の人々が日々苦しんでいる貧困に、果たして自分たちなら耐えられるのだろうか。我々は今このような文章を読みながらも、そんなことを真剣に考えることはまずない。

しかしながら何百万もの人々が、我々には想像もつかない苦悩と迫害に苦しんでいる。アイルランドの“じゃがいも飢きん”の時代に起きた残酷な行為とアイルランド人の苦悩を描写しているこの映画によって、何百万もの人々が、今日、何に苦しんでいるのかを理解することができる。

飢えに苦しむ人々や見捨てられた人々、不当に投獄されている人々や障がい者、虐待を受けている人々に対する気遣いや思いやりの中にある価値、そして彼らのために正義と自由を求める愛は、人間が存在する目的や意味を与えてくれる究極の目標だ。実行しなければ、得ることはできない。

排除と搾取、そしてどのような方法であろうとあらゆる形の奴隷制度は、真の意味において我々が人間らしく存在するために必要なものを奪う。つまりそれは、自ら考え行う自由な選択だ。我々を他のあらゆる生物と区別するこの類稀な特性が奪われ、取り上げられたとき、我々人間の尊厳はないがしろにされ、権利は否定され、人間以下の存在として扱われるようになる。

だからこそ人身取引業者によって強いられる監禁や虐待は、人間性に計り知れない負の影響を与える。何千人もの子どもたちや若者は今も奴隷状態に置かれている。彼らの自尊心は奪われ、生きようとする意志は弱められる。自殺に走る子どもも多い。貧困や空腹、強制労働に縛られ、選択の自由もなく、自由意志を行使し、自分自身のためにどこで、どのように生きて行くかを決める自由もなく、ぎりぎりの状態で生きている。そのような状況下で、人々は大きな苦しみや苦痛を強いられることになる。そうした何千人もの子供や若者を救うために善意の人々が行動を起こせば、彼らがが抱えるそのような苦しみを終わらせることができる。

12歳と14歳の姉妹JessaとJadeは両親に捨てられ、心ない遠い親戚に預けられた。人身取引業者は2人を食べ物やお菓子、小遣いで誘い出した。姉妹は外国人と部屋で“遊ぶ”ことを強制された。この男はアンヘレス市などに長期滞在していたセックスツーリストだ。子どもたちに対する性的虐待の疑いがかかっていた。

子どもたちのことを心配した近所の住民が状況を知り、すぐにプレダのソーシャルワーカーに通報した。2人は救出され、性的虐待を受けた女の子たちを安全に保護しているプレダホームへやってきた。姉妹は回復し、今は安心して幸せに生活している。そして自分たちの身に起きたことを話すことができるようになった。彼女たちは自らの意思で虐待者を告訴することを選び、男は裁判所での尋問に答えなければならない状況にある。すべての人々に子どもたちを救い、守ろうとするこのような思いがあれば、世界はもっと幸せで、良いものだったはずだ。

何十万もの若い女性たちが、その多くがフィリピン人だが、奴隷状態に置かれ、商業的な性的搾取を受けている。借金の罠にはめられ、そして暴力を振るわれ、性的に虐待されることに対する恐怖と脅しによって生きる力を失っていく。多くの場合性産業で、若い女の子たちは無給で、自由のない状態で働かされている。これが今日の奴隷制度だ。フィリピン当局はこれを容認している。

ヨーロッパや北米では、様々な職種の中にこうした女性たちを見る。美容院やネイルサロン、マッサージ店、売春宿などだ。もし言うことを聞かなかったり仕事をしなかったりしたら、人身取引業者たちは自分たちの家族に危害を加えるかもしれない。彼女たちはそうした恐怖と脅迫の中で生きている。

人間を奴隷にするための人身取引は、多くの国々で見て見ぬ振りをされるか、軽く扱われることが多い。アイルランドとイギリスの新たな法律は、人身取引の被害にあった人々を支えの必要な被害者として対応し、法的支援を提供することを関係機関に求めている。何千ものさらなる被害者を救出するためにも、やるべきことはまだまだある。

2,000万人もの人々が来る日も来る日も、無給の強制労働を目的に取引され、長期間苦しめられている。逃げ出す者もいれば亡くなる者もいる。救出され自由の身となる者もいる。同じ人間を奴隷にし、自由な選択も自由もない状態で彼らを搾取することで生み出される富への欲望は、人生を破滅させる。

こうした状況には気が滅入るが、子どもや若者を人身取引業者の手から救出し、そのような業者たちを裁判にかけるための活動をしている善意の人々やボランティア、関係組織、NGO、真面目な捜査官が世界中に何千人もいることは知るに値する。

プレダ基金は2018年だけでも、児童虐待者と人身取引業者に対して13件の有罪判決を勝ち取った。多くの子どもたちが救出され、教育と治療を受けることのできる健康的で、有意義な生活を取り戻している。そして、人身取引業者や虐待者に対する訴訟を起こせるまでになる。

だが、我々に救い出してもらうことを待っている子どもたちがさらに大勢存在する。だからこそ関心を持って、この記事を紹介する、ボランティア活動に参加する、プレダ基金(www.preda.org)に寄付をするなど、自分たちにできることをしてほしい。

『Ricky and Julie』はアマゾンhttp://amzn.com/B07DXKX4SVから購入できる。売り上げは全額、子どもたちの支援に使われる。

原文https://preda.org/fr-shays-articles/bringing-hope-to-the-hopeless/


救出された子どもたち
Fr. Shay Cullen
2018年9月7日

最近プレダは、問題を抱えた男の子たちのために、セブ都市圏から2、3キロのところに位置するリロアンに新たなホームを開いた。支援者の方々のご協力により実現することができた。プレダホームの子どもたちの年齢は10歳から15歳ぐらいだ。刑事上の責任は問えないはずだが、犯罪者と同様に刑務所に入れられている。我々は彼らを救出し、新しい生活をスタートさせることができるよう支援している。

この若い男の子たちは、不衛生な刑務所や非人道的な環境の、いわゆる少年鑑別所、あるいはフィリピンの少年院から救出されてきた。私はこうした男の子たちに話しかけている。このことは以前にも書いたが、こうした子どもたちの純真さを人々に知ってもらうことは重要なことだ。

今や解放され、安心して幸せに満ちたプレダホームで過ごす男の子たちに、私はこのように話している。「君たちは神の子であり、神の家族の中で一番大切な存在です。だから君たちはここにいます。そして自由です。君たちには権利と尊厳があります。」神こそが永遠の善の力であり他者への愛の力であると考えれば、善意の我々は、その力によって結ばれている。

子どもたちは目を見開いて、畏怖と困惑に満ちた、信じられないといった表情を浮かべる。彼らはプレダに到着し、他の男の子たちと顔を合わせたばかりだ。10歳のJasonは飛び跳ね、腕を大きく広げくるくると回り始める。まるで“自由である”ことをはしゃぎながら表現しているかのようだ。みんなが笑い、その瞬間を楽しんだ。

今、男の子たちは地方の美しい家で幸せに暮らしている。不当な扱いを受けたこともなく、法に抵触したり自由を失ったこともない我々が、当たり前に思い、大切にすることも祝福することもない、そんな基本的権利と喜びを、彼らはここで見つけ、それを体験している。奪われてはじめて、人はその価値に気づくのかもしれない。

「法に抵触した男の子たちのためのプレダホーム、新しい夜明け(thePredaFoundation’s New Dawn Home for Boys in Conflict with the Law)」に暮らす男の子たちは有罪判決を受けたわけでも、裁判になっているわけでもない。治療や心理療法を受け、問題の多い生活への支援を受けるためにやって来た。敷地内では、好きな時に自由に走り回ることができる。刑務所や少年鑑別所には守衛がいた。鉄柵や鉄格子の檻があり、厳しい治療があった。日の光に当たることもできず、運動することも教育を受けることもできなかった。娯楽もなく、肯定されることも法的手続きがとられることもなく、動物のように閉じ込められていた。だが、プレダホームは違う。

男の子たちにとって権利や敬意というものを経験するのはこれが初めてのことだ。彼らは驚き戸惑う。プレダでは子どもたちに本当のことを話す。「君たちは素晴らしい。君たちには権利と尊厳があります。これまでは思いやりのない、未熟な大人たちの悪い影響と悪い手本のもと、厳しい生活を送り、過ちを犯してきました。でも今君たちは、全く別の、前向きな人生を生きるという選択をすることができるのです。」

子どもたちは疑いの眼差しで話に耳を傾け、この素晴らしい話をにわかには信じることができずにいる。それは、彼らがこれまで愛され、必要とされ、尊重され、支えられ、食事を与えられ、大切にされたことがほとんどなかったからだ。それどころか彼らはその存在の全てを否定され、家族や社会の重荷であり厄介者であり、処罰と収監に値すると言われ続けてきた。

今彼らには次のように教えている。「君たちはここ、“男の子たちのためのプレダホーム、新しい夜明け”では自由です。ここに残るのも、ここを去るのも、君たちの自由です。君たちは大切な存在で、価値があり、そのままで素晴らしいということを知ってください。自分が悪い、犯罪的で役に立たない若者だなどと思い込んだり、考えたりしないでほしい。君たちは神の子であり、神の家族の中で一番大切な存在です。イエスはそう言っています。」

この素晴らしい話をひとつひとつ聞きながら、そして恐怖から解放され、罰も処分もないことを理解しながら、子どもたちは自己形成、自己認識を行い、人として成長し始める。こうした経験は、人が人であるということの、欠かすことのできない極めて重要な部分であり、彼らがこれまでしたことのない経験である。子どもたちは尊重され、自分には価値があると感じ、前向きな目標を達成するという夢を抱くことができるようになる。自分と、大人になった将来の自分が持つ家族のためにより良い、より幸せな生活を手に入れるために力を貸してもらえると信じることができるようになる。今とっている態度は、将来他人に対してとる態度である。彼らは良い方向へ向けて学び、成長しなければならない。

彼らは子どもだ。親や社会に価値のない泥棒、薬物依存者、社会の除け者と烙印を押されてきた。だがそれは違う。彼らはなんの罪も犯しておらず、周囲から見捨てられたまま、自分だけを頼りに、生きるために路上で生活していただけだ。

誤解され、愛情を注がれず、悪人として汚名を着せられた善良な子どもたちは、通常、周囲が考えるような人間になっていくことが多い。大人や親たちは、身体的にも、精神的にも、そして言葉によっても決して子どもたちを虐待してはならない。子どもたちは反発するようになり、復讐する方法を探すようになる。誰もがそうであるように、子どもたちも不公平さを感じている。

私は折に触れ、問題を抱え、薬物に手を出す荒れた子どもの親たちに質問を投げかける。「あなたたちの子どもは純粋で、罪もない状態で生まれてきました。にもかかわらず、このように反抗的になってしまったのはどうしてなのでしょうか。」私は問う。「あなたたちの子どもはなぜ痛みを消そうと薬物に手を出すのでしょうか。その苦痛を与えているのは誰なのでしょうか?彼らが成長していくとき、あなたたちはどのように接し、話しかけていましたか?」

私は親たちに話して聞かせる。「あなたたちの息子はここプレダにいて、決して逃げ出さず、盗みを働くことも、薬物に手を出すこともありません。ここでは暴力を振るうどころか、私たちを助けてくれています。やるべきことをやり、毎日授業に出席し、スタッフにも他の男の子たちにも敬意を払っています。それはなぜだと思いますか?彼らが悪いのでしょうか、それとも家庭に問題があるのではないでしょうか。」親たちは、どうしたら愛情深い、いい親になれるのかについて教えられたことがない。学校教育の中では、いい親になる方法について教えてくれる授業はない。

拘束から解放された男の子たちのためのプレダホームで、若者たちの刺激となり、彼らにやる気を与えているものは親たちの存在だ。子どもたちは、自分の親が積極的に活動に加わり、親業に関するセミナーに参加していることを知る。そして親自身が自分たちにも非があることを認め、それを受け入れ、子どもたちとうまくやっていこうとしていることを理解する。そのことが子どもたちの刺激となりやる気となっている。親はその否定的な態度をあらため、子どもたちに愛情を注ぐべきだ。そうすれば、子どもたちは希望と新しい人生を手に入れることができる。

原文https://preda.org/fr-shays-articles/when-children-are-set-free/


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フィリピン軍基地を装って戻ってきた米軍基地
Fr. Shay Cullen
2018年4月20日

2018年4月17日、アメリカが建設する初の軍事施設の起工式が、フィリピンの国防相Delfin Lorenzanaと駐フィリピン米大使Sung Kimにより執り行われた。この動きは、2014年に締結された防衛協力強化協定(the Enhanced Defense Cooperation Agreement, EDCA)に基づいている。この初のアメリカ資本による軍事施設はパンパンガ州バサ空軍基地内にある。

フィリピン軍事基地内にこのような施設の存在を認めるEDCAは、フィリピン前大統領ベニグノ・アキノ三世が締結したものだ。この協定は行政協定であり、憲法が定める所によりフィリピンの議会が承認する条約ではない。他国の基地に対する承認はフィリピン議会だけが有する権限であることから、この行政協定の適法性を疑問視する法律の権威もいる。協定の実施が今週まで延期されていたのは、そのためだろう。

アメリカを痛烈に批判し、アメリカの敵対国である中国との友好を深めるロドリゴ・ドゥテルテ大統領が、前大統領が締結したこの協定の遂行をなぜ許可したのか。その理由はまだ見えてこない。フィリピン国内に新たな米軍基地を置く、その最終的な真の理由は不透明なままだ。この新たな施設は外的脅威から国を守るためのフィリピン国防軍(the Armed Forces of the Philippines, AFP)の軍事力強化のためであるという。EDCA締結当時に配布された資料の中で、かなりの紙面を割いてそのことが強調されている。またこの施設は、「以下の事項に関して、フィリピンとその防衛条約の同盟国であるアメリカ合衆国との関係を深める」ためのものでもあるという。
・相互運用性
・AFPの近代化へ向けた軍事力強化
・対外防衛を目的としたAPFの強化
・海上警備
・海上領域認識
・人道支援及び災害対応(Humanitarian Assistance and Disaster Response, HADR)

中国が所有権を主張する南シナ海の天然資源の共同開発について、ドゥテルテ大統領と中国の習国家主席の間で協定が結ばれたことが先日発表された。その協定に、アメリカは介在していない。仮に中国が同海域の岩礁や島々に仮設滑走路を含む軍事施設を建設していたとしても、アメリカは一切、支援要請を受けることはない。海洋法に基づく国連の仲裁では、係争中の領域についてはフィリピンに有利な判決が下されている。

EDCAの上記目的は、一部で“海上警備と海上領域認識”を保証するものであるが、こうした状況を考えると、この目的は現実的には無意味だ。では、それ以外の目的、“対外防衛を目的としたAPFの強化”について考えてみよう。フィリピン国防軍は何らかの外的脅威、例えば侵略や攻撃、占領の危険にさらされているだろうか。答えはノーだ。そのような脅威は一切存在しない。だとすれば、EDCAに基づく基地協定の実施には何か他の目的があるに違いない。ドゥテルテ大統領は自身の采配で、その目的に承認を与えた。だが、その目的については沈黙を守っている。

前述の資料によると、この施設はフィリピン国防軍の訓練と軍事力強化のためのものである。しかしそのための毎年恒例の軍事訓練はこれまで25年間、米軍基地が存在しない状態で続けられてきた。ではなぜ、基地内にこれほど多くの米軍施設が必要なのだろうか。フィリピン国防軍施設のほとんどが今後、施設内に米軍と軍需物資を抱えることになるだろう。

こうなると、米軍施設が存在する唯一の理由は災害時の人道支援である。ただフィリピン赤十字社によると、フィリピン赤十字の災害時対応能力は向上しているそうだ。そうであれば、これほど多くの施設へ費やす、極めて多額の費用を正当化するする理由としては、災害時の人道支援だけでは不十分である。災害対応の任務を負うフィリピン赤十字は、ほとんどの状況において、他国の支援なしで任務を遂行できると断言している。アメリカの支援を要請しなければならないほどの大きな自然災害はほとんどない。

フィリピンが直面している唯一の脅威は国内にある。新人民軍(New People’s Army, NPA)であり、ISISの脅威であり、記憶に新しい反政府軍によるマラウィ占拠である。軍需物資の事前配置とアメリカの支援の必要性がうかがえたのは、後に展開された戦闘や空爆による破壊行為の最中である。こうした破壊行為は、表向きには支援という形で、相談役としてのアメリカと偵察機により実行に移された。アメリカによる関与については、今のところ確証はない。事前配置される米軍や軍需物資、兵器その他供給物資が役立てられるのは、こうした状況においてのみだろう。このような物資は、東南アジアやアフガニスタンで繰り広げられるアメリカの戦闘行為の支援にも利用することができるかもしれない。

このようなフィリピン基地内の米軍基地に配属される米軍の数は定かではないが、交代制で配属されるようだ。任期についてはわかっていない。

米軍基地が閉鎖され、軍の施設が民間の商業施設に転用され、クラーク空軍基地とスービック海軍基地が何百もの工場やホテル、ショッピングモールを誇る新興都市と化してから25年、基地は戻ってきた。これらの基地は米軍基地ではなく、フィリピンの軍事基地内にある施設だとする主張が、基地の存在を覆い隠している。これは見え透いた言い訳に過ぎない。ここに駐留する米軍はおそらく基地の外に出て、性的な娯楽を求めるだろう。そしてすでに賑わっているセックスツーリスト集団に加わるだろう。このセックスツーリストたちは罰せられることなく、フィリピンの若い女性や子どもたちを虐待している。

女性や子どもたちによる売春の隠れ蓑となっているセックスバーやクラブといった性産業が営業許可を受け、市長の許認可を得ているという事実は、地元自治体が共犯であることを意味している。再建される米軍基地は、憲法の精神に反するだけでなく、人身取引の被害者であるフィリピンの女性や子どもたちをさらにもう一度、被害者にする行為に加担している。


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オンライン児童虐待の捜査で成果をあげる警察
Fr. Shay Cullen
2018年4月13日

現在多くの国々で、インターネットを使って子どもたちへの性的搾取を行う小児性愛者(ペドファイル。ここでは、幼い子どもにみだらな行為をする人間、児童性虐待者や小児性犯罪者に限定する)に対する捜査が行われており、警察は素晴らしい成果を上げている。小児性愛者やポルノ製作者たちはダークウェブに身を隠し、暗号化ソフトを駆使しているにもかかわらず、その逮捕者数は増えている。オンラインで子どもたちを虐待し、何千枚にも及ぶ子どもたちの写真をインターネットを通じて互いにやりとりする。小児性愛者たちはこれに刺激され、煽られるように実際の行為を求めて自国のみならず海外へと向かい、さらに多くの子どもたちを性的に虐待する。

ネット上でサイバーセックスをさせるための隠れ家が存在する。そのフィリピン国籍の子どもたちはわずか6歳か7歳でその場所へと連れて行かれ、バージニア州東部出身のアメリカ人、Dwayne Stinsion(53)の快楽と満足のために、そこで撮影されながら性的虐待を受けた。Stinsionは電子送金で複数の女に金を払い、子どもたちを虐待した。罪状は、児童ポルノ製作、画面表示された虐待写真の撮影および自身のコンピュータ内での保持である。Stinsionは罪を認めており、判決は今年8月に下される。フィリピン警察は女たちの発見には至っていない。女たちは性を売りにした社会で商売をしている。政府の許認可のもと、何のおとがめもなくセックスバーやサイバーセックスに利用される隠れ家の経営を行なっている。

今年はじめ、26歳のアイルランド人、Matthew Horan(St. John’s Estate, Clondalkin, Dublin在住)が逮捕、拘束された。Horanは有罪判決を受けている小児性愛者だ。幼いアイルランド人とアメリカ人の女の子たちに対してインターネットを通じた性的搾取を行なっていた。女の子たちは9歳前後だった。性的虐待を受けている女の子たちの様子を撮影した何千もの映像が自宅で発見された。裁判所命令に従うことを条件に、2年の執行猶予付きの7年6ヶ月の刑が言い渡された。将来的に、アイルランド性犯罪法が改正され、こうした裁判所命令に海外渡航禁止が含まれることを願う。

フィリピンでは4年半前、逮捕・起訴されたアメリカ国籍の男が児童虐待と人身取引の罪を認めた。プレダ基金は、正義を求める被害者たちを支えた。治外法権により、この男はアメリカで起訴されることになるだろう。

2017年12月、200人もの小児性愛者が、オンラインで子どもを虐待した容疑でイギリス国家犯罪対策庁(UK National Crime Agency, NCA)に逮捕された。特定された被害者250人は、ネット上で10代と偽っていた小児性愛者たちに操られ、罠にかけられた。小児性愛者たちはそうした10代の被害者たちを言葉巧みに誘惑し、性的な露出のある写真を送らせた。そして、フェイスブック等にその写真を載せると脅迫し、さらに写真を送るよう子どもたちに強要していた。

昨年の秋、32歳のPaul Leighton(Seaham, County Durham在住)は、児童に対する性的暴行により16年の有罪判決を受けた。この事件は、何千マイルも離れた場所で起きた。Leightonは、14歳の少年を騙して裸の写真を送らせた。その後少年を脅し、1歳になる姪に対してオンラインで性的虐待をするよう繰り返し強要した。少年は警察に起訴された。一方Leighton は警察に対し、彼は自分が被害者たちに対して有していた圧倒的な力を楽しんでいた、と話した。被害者たちの多くはオーストラリアやカナダ、アメリカ、イギリスに住んでいた。

NCAの担当主任Will Kerrによると、インターネット上で児童ポルノ画像をやりとりした容疑で、毎月400人もの容疑者が逮捕されているという。民間の子ども保護団体は対策を講じて小児性愛者たちと対峙しており、それが逮捕者の増加へとつながっている。民間の“小児性愛者ハンター”たちが集めた証拠を採用している警察もある。“小児性愛者ハンター”はおとりを使い、10代の若者のふりをしてオンラインで待機し、小児性愛者たちの気をひく。そしておとりが小児性愛者の言いなりになるような状況を作り出す。その後、記録した犯罪の証拠、つまり電子メールやチャットその他集められた情報を警察に提供する。BBCの調査によると、イギリスでは“ハンター”たちによってもたらされた情報に基づき、警察が150人の容疑者に対する捜査を行なった。警察が独自の捜査を行い、被疑者を特定するためにそのような情報を活用する機会が増えている。

だが、さらに攻撃的な“ハンター”も存在する。自ら容疑者を特定し、容疑者と直接対決し、その様子をフェイスブックでライブ配信する。これは非常に危険で、危害の及ぶ可能性がある。対決を余儀なくされた容疑者は暴力を振るってくるかもしれず、そのような接触は警察に任せるべきでだ。またある意味で、親たちにも注意が足りない。湯船につかる姿や裸で海辺やプールにいる子どもの姿を写真に撮り、それを誰でも見ることができるソーシャル・メディアに掲載する。小児性愛者たちはそうした写真を閲覧し、その子どもを狙ってくるかもしれない。子どもたちにもプライバシーの権利があってしかるべきだ。

ネット上での児童虐待をなくすためには、予防こそが最も有効だ。ネット上での子どもたちの権利と尊厳を守るためには、最終的には親が気を配り、警戒しなければならない。相手の正体、素性を確認することができない場合、絶対にその相手とネット上で関わりを持ってはいけない。そのことを子どもたちに教える必要がある。

子どもたちはネット上で知り合った、あるいは他に誰もいないところでしか会ったことのない人物に自身の写真を送るようなことをしてはいけない。多くの若者が相手の要求に応じてしまう。その要求が過剰になり、やがて、ソーシャル・メディアを使った写真の拡散という内容の脅迫へと変わる。自殺に追い込まれた若者もいる。若い人たちは親と信頼関係を築き、情報を共有し、疑わしい人物については警察に通報しなければならない。


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地球は我が家
Fr. Shay Cullen
2018年4月5日

“それ”は私たちの周りにあって、行く先々に存在する。通りにも、海辺にも、森の中にも。山登りに行っても泳ぎに行っても、私たちは“それ”を目にする。いつもそこにある。私たちが見て見ぬ振りをしている事実を突きつけているようでもあり、見事な発明であることを見せつけているようでもある。“それ”は私たち人間が作り出した人工の友であり、今となっては破壊的な敵である。“それ”は、私たちそして地球上の生物に、永続的かつ不可逆的な害を大量にもたらしている。もうお分かりだろう。そう、“それ”はプラスチックだ。

プラスチックで包装された食べ物や商品を開けるたびに、私は罪の意識、悲しいような、がっかりするような気分になる。プラスチックは強度が高く、頼りになり、保護性の高い人工素材であり、人類にとって幅広い用途のある、非常に価値のあるものだということはわかっている。プラスチックは、サンドイッチの包装から、私たちが座っているプラスチック製の椅子まで、考え得るありとあらゆる方法で使用されている。しかし、どうしたら安全かつ無害な方法でプラスチックを再生・処分することができるだろうか?

インディペンデント紙に掲載された最新の報告によると、毎年800万トンものプラスチックごみが海に捨てられている。さらに、51兆のプラスチック微粒子が地球全体に存在していると報告された。これは、銀河系に存在する星の500倍を超える数字だ。

北極圏は美しく、かつては汚れのない原始のままの遠隔海洋だった。調査員たちはその北極圏だけでも、3000億のプラスチック微粒子が浮いていることを発見した。魚はどこにいようと、そうしたプラスチックを食べることになる。

報告によると、過去およそ80年間で製造されたすべてのプラスチックのうち、79%が埋立地に処分され、または焼却され、あるいは周囲の環境や海にそのまま溶け込んでいく。再生されるのはわずか9%に過ぎない。

アースデー(4月22日)が近づいている。低価格で便利な、しかしながら有害なこの物質が環境に及ぼす影響に注視すべきではないだろうか。大きな利益をもたらす一方で、大規模な破壊をももたらす。私たちはやり方を変え、植物をベースにして作られるプラスチックを考え出さなければならない。

私たちは、化石燃料をベースに作られるプラスチックに大きく依存している。1950年ごろから人類は83億メートルトンものプラスチックを製造している。Ocean Conservatoryの報告には、汚染者として最悪な国としてフィリピンを含む東南アジア諸国が名を連ねている。マニラを流れるパシグ川の汚染状況は中でも最悪だ。世界のプラスチックごみのおよそ60%がこれらアジア諸国から排出されている。

プラスチックの耐久性は製造業者にとっては大変魅力的だが、それが弱点でもある。化石燃料から作られるプラスチックは生分解性ではない。木のように腐敗することはなく、何百年経っても分解されることはない。それどころか何百年もの間、地球を汚染する有毒物質として存在し続ける。

プラスチックは時間をかけて細かくなり、やがてプラスチック微粒子となる。その微粒子が植物に付着し、空中をさまよい、川や海へと運ばれる。その微粒子と、他の化学薬品や殺虫剤、プラスチック粒子に付着しているごみなどは、互いに引きつけ合い、そして目に見えない、危険で有害な毒となる混合物を作り出す。有毒な混合物。シェークスピアのマクベスに登場する、大釜に集う3人の魔女を連想させる。そう、私たちは苦悩を生み出している。「二倍だ、二倍だ、苦労も苦悩も。」この混合物はさまざまなガンの原因とも考えられている。

こうした目に見えず、検知不可能な粒子を私たちは吸い込んでいる。この粒子は肺や鼻孔に付着することもあり、正確な診断を下すことのできない症状を引き起こす。地球もそこに暮らす生物も、自ら仕掛けたプラスチック汚染という猛攻撃を生き延びるための進化を、まだ遂げていない。プラスチックは石油からできている。もし私たちが何か行動を起こし、自然の生息環境や自然環境に存在する生き物たちを破壊し続けている汚染を、今食い止めなければ、動物や私たちの子どものそのまた子どもたちは、この先何世紀にも渡ってプラスチックを吸い込み続けることになるだろう。私たちは行き詰まっているかのように思える。

もし私たちが、そのほとんどがそうであるように、都市環境あるいは工業地域に暮らしているのであれば、石炭や石油、軽油を燃やしたときに排出されるスモッグや煙を吸い込んでいる。ロンドン大学キングズカレッジのフランク・ケリー教授は、私たちの健康にとって有害な環境危険を研究する有名な研究者であり、教授の新たな研究によると、プラスチック微粒子はそうしたスモッグや煙に付着しやすい。

The Great Pacific Garbage PatchやThe Eastern Garbage Patchと呼ばれる、いわゆる「太平洋ゴミベルト」が存在する。これは、北大西洋と太平洋上に広がるゴミの海域である。海流の影響により、プラスチックごみがまるで島のように堆積し、フランス領土に匹敵するほどの広さになっている。

魚は微粒子を取り込む。亀はプラスチック製の袋を、クラゲだと思い飲み込んでしまう。魚の多くはプランクトンを食べるが、プラスチック微粒子を食べ物だと勘違いしてしまう。私たちは魚をたくさん食べる。肉を食べるより健康的だと考えてのことだ。地球を救うためには、人類はベジタリアンになるしかない。

だが今となってはそれは不可能だ。国連の報告によると、2015年だけでも私たち人類は9,260万トンもの魚を消費している。西洋諸国では商業的価値がないとして、相当数の魚が廃棄され、死んだ状態で海へと捨てられる。驚くべき浪費の実態だ。ただこの事実が意味するのは、魚を食べている私たちが以前にもましてより多くのプラスチックを体内に取り込んでいくことになる、ということだ。やがて私たちは、自らのホルモンや内臓を破壊することになるプラスチック粒子を体内に抱え込むことになる。私たちはまだ、プラスチックに耐性のある生き物としての進化を遂げていない。

しかしまだ希望はある。植物をベースに作られるプラスチックや梱包材の開発だ。ただ、一般に使用できるようになるまでの道のりは遠い。プレダのウェブサイト上の“Say Goodbye to Plastic”を参照してほしい。

プラスチック製の袋の使用を禁止している町や市もある。ここ、スービック経済特別区では紙袋のみが使用を許可されている。プラスチック製の袋は使用禁止になっている。国連は、海のプラスチックごみを削減することを目的にしたClean Seas Campaign(海洋ごみ削減キャンペーン)を新たに発表した。プラスチック製品を家庭でリサイクルする、生活環境からプラスチックを減らす、そしてこうしたキャンペーンに参加するよう国や国民に働きかける。まずは、私たち自身が良い手本となろう。


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ジェシカの復活
Fr. Shay Cullen
2018年3月29日

ジェシカはフィリピンの市街地をさまよう、行き場のない子どもだった。人身売買業者に拾われ、あちこち連れていかれた先で、まるで日用品か何かのように外国人セックスツーリストたちに売られ、虐待された。ジェシカは、自分自身に起きていることが理解できなかった。当時14歳。レイプされ、搾取され、処女を奪われた。世の中を憎むようになったジェシカはやがて、自分は存在すらしていない、自分には何もない、そう感じるようになった。自分には未来も、今も、そして過去もない。あるのは絶望だけ。救出され、国の保護施設に収容されたジェシカは脱走を繰り返し、反抗した。そこにいたのは、攻撃的で荒れ狂い、憎しみと苦痛に満ちた、若く、無学の十代の少女だった。

ソーシャルワーカーたちは途方に暮れ、ジェシカをプレダのガールズホームに連れてきた。このホームは常にオープンで、見張りもいなければ、フェンスや高い壁もない。子どもたちがここを去ることは自由だが、ほとんどの子どもたちがとどまり、幸せな環境の中、生きることを選択する。ジェシカもまた、彼女自身の自由な意思でホームにとどまった。人として選択する自由、そして彼女が手にして当然の権利が与えられたからだ。その選択は、尊重され、肯定され、尊厳あるものとして受け入れらる。ジェシカは希望と励まし、そして支えを見つけた。

その後、ジェシカは進んでEmotional Expression Therapy(感情表出療法)に参加した。治療に使われる部屋の床や壁にはマットが敷き詰められている。その部屋で、幼少の頃から心の奥底に抱えていた、そして無残にレイプされ、虐待された時に湧き上がった痛みや苦しみ、失望、そして憎しみ、それらすべてを吐き出すように、ジェシカは声を上げて泣き叫んだ。

数週間後、ジェシカの自己に対する意識や認識に変化が現れた。自信を持てるようになり、そして、自分を虐待した犯罪者たちを起訴し、正義を見出そうと勇気を奮い起こした。ジェシカは強く、力を秘めた女性になっていた。彼女のその闘いは苦しみであり、昔の生活を葬り去ることであり、そして新しい人生の始まりだった。ジェシカの復活―暗く、苦痛に満ちた日々から蘇り、希望に満ちた光輝く未来と満ち足りた日々を取り戻した。友情と教育の持つ新たな可能性を胸に、ジェシカは生まれ変わった。

希望があれば、変わることができる。ジェシカの人生のように、個々の人生を変えることもできる。この社会の何千もの人生についても同じだ。社会悪や不当な行為、あらゆる痛みや苦しみが存在する暗闇の中から、希望が変化をもたらし、癒しを可能にする。残忍な独裁者はその傲慢さゆえに見捨てられ、ないがしろにされていた人々は力を取り戻し、人生を再び生きるために立ち上がる。

それは、ナザレ人福音書にあるメッセージである。指導者や長老、民衆から排除されたことで、極めて清廉潔白な人格者であったイエスは不当な咎めを受け、濡れ衣を着せられ、訴えられ、死刑に処せられた。イエスは、真実、正義、人としての尊厳そして万人の、とりわけ子どもや女性たちの権利について説いた。平等と分かち合うことを説き広め、偽善、搾取、そして弾圧を糾弾した。変わること、そして不当な行為を終わらせることを、声をあげて求めた。しかしながら、他者を思い、弱い者、貧しい者、愛を求める者たちを癒し支え、許しを請うものを許し、尊い生き方を貫いたイエスは、罪人として裁かれ、有罪を宣告され、残酷非道な死をもたらす道具にはりつけにされた。

その働きかけは完全な失敗に終わり、信者たちは散り散りとなり、使命は果たせず、そして世の中の変化に終止符が打たれた。おそらくは誰もがそう思っていたその時も、希望の灯はともり続けていた。イエスは生きていた。信者たちの思想、想像、感情そして信仰の中で生き続けていた。互いに殺し合い、傷つけ合い、苦しめ合うのではなく、互いに愛し合うことができれば、幸福な日々が訪れると約束したイエスの力強く、恍惚を誘う言葉は、現実となる。万人の平等と尊厳
が守られた世界は、不可能ではない。冬の真っ只中に現れるユキノハナのように。

ジェシカは自分の存在を信じるようになった。そして信者たちと同様に、希望を持ち、新しい人生を歩んだ。それは、ナザレ人の示した真の価値に鼓舞された人々が、一番苦しい時期にあったジェシカに勇気と支え、思いやる気持ち、友情、そして安らぎを与えたからに他ならない。

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